思い返すはあの日のこと。
私は白い世界で、あいつを待った。
そして、伝えたい想いを、おくびにも出すことが許されなかった言の葉を、口にした。
私が欲しいもの。
私が願うもの。
私が求めるもの。
そして、あの夏を通して、あの苦しい数ヶ月を経て、私は確信した。
「今日は、早く帰ってこようと思うんだ」
味噌汁をすすりながら、俺は向かいに座る智代に話しかけた。
「でも、大丈夫なのか?」
心配そうに俺を見る智代。まぁ、早くといっても定刻通りという意味で、可能な限り残業はしないということだった。それぐらいの時間なら、何か洒落たものでも買いに行くことだってできるだろう。
「まぁ、大丈夫さ。何せほら、今日は大事な日だからな」
「……うん」
顔をほんのりと赤く染めながら、智代が頷く。
「朋也、ありがとう」
その笑顔があまりにもまっすぐすぎて、そんな風に見られるのがいまだに恥ずかしくて、俺はついぶっきらぼうに答えた。
「早くしないと遅れちまうな」
「うん、そうだな……ふふっ」
どうやら俺の照れ隠しは、いつも通り失敗したようだった。
それでも届いた物
「今日はここか……」
電信柱を見上げて呟く。
「楽勝っすね。もう慣れてきましたし」
「あんま無茶すんなよ。気をつけて慎重にな」
二人で命綱を確認してから登った。配電盤のふたを開けて絶句した。
「これは……」
「うげ」
どれほどの間放置されていたんだろう、その中身はまさに腐食と摩耗の倉庫だった。
「ったく、こんなことになるんだったら、もっと早くから連絡してくれよなぁ……」
山萩がぼやく。
「まぁそう言わずに。よし、まずは十番」
「うす」
作業量は多いが、面倒なわけじゃなかった。しばらくしてから、俺は作業を山萩に譲った。
「そうそう、そんな感じで……ちがうだろ、そこは」
「すんません」
最後のネジ留めでポカをするところが、山萩らしいと言えばらしかった。
車に乗って、次の現場に向かうとき、山萩がふと聞いてきた。
「そういや岡崎さん、左の胸ポケットに何かあるんすか」
「は?何で?」
「いや、電柱から降りたとき、いつもそこをポンとたたくじゃないすか」
ああ、と答えて、俺は胸ポケットからそれを出した。
「……お守り?」
「ん。智代が俺にって」
「……ラブラブっすね」
「まぁな。あの事故のときは、あいつにも迷惑かけたしな」
俺は、少し苦々しげに笑った。
「あれ、岡崎さん、今の角曲がるとこじゃなかったすか?」
「何ぃ?!」
『……となっており、現在調査が行われていますが、校舎の中にいた生徒と教師がなぜ一斉に気分が悪くなったのかはいまだにわからず、警察は「生物テロの可能性も否定できない」とのことです。冬木市からお伝えしました』
ラジオを聴きながら、俺たちは弁当を食べていた。
「……にしても智代さん、パターン毎回毎回変わりますよね」
「……まぁな」
今日は手を振る笑顔のクマそぼろだった。昨日は普通の握り飯だな、と思っていたら、断面図にクマがというとても手の込んだものだった。
「ところでお前、何メール打ってんだ?」
「え、あ、その、何でもないっす」
……めちゃくちゃ怪しかった。
「……まぁいいけどな」
「そ、それより岡崎さんと智代さんって、マジで仲良いっすよね」
「当たり前だろ。俺を、俺たちを、誰だと思ってやがる!!」
穴がなけりゃ電柱立たず。電気がなければドリル回らず。穴掘り屋と電気工は持ちつ持たれつ。
「喧嘩とかしたって話すら聞きませんもんね」
「まぁな。喧嘩しようにも無理っぽいしな」
?、と首をかしげる山萩。
「あのな、喧嘩ってのは、ある程度力が拮抗してないとできないだろ?それに双方が不満を持たなきゃ意見はぶつからないわな」
「……違うんすね」
「ああ。喧嘩っつーよりは、俺が何かやってあいつがプンスカ怒っちまう、っていうパターンだ」
本当になだめるの大変なんだぜ、と苦笑した。
午後は書類の整理をすることになった。
「何か今日は、いつもより手際いいね」
親方が笑った。
「そ、そうっすか?」
「いやまぁ、岡崎君はこういうの得意っぽいようだけどさぁ、今日は何か特別って感じで」
「はぁ……」
まぁ、それはそうかもしれない。実際、俺は仕事を早く終わらせたかった。
早く仕事を片付けて、早く智代のプレゼントを買って、早くあいつの喜ぶ顔を見たかった。
何がいいだろうか。あいつのことだから、「かっこいい朋也のくれるものなら何だってうれしいぞ!」とか言ってくれちまうに違いない。それはそれですげぇ胸キュンものだけどな、そうなると選ぶ側は少し困るな。何をあげれば一番喜ぶだろうか。くぅ、いい嫁さんをもつと辛いぜ。
花……ってのもまぁベタだしな。クマさんは去年送ったし……下着、はちょっとなぁ、その、ほらあれだ、下手するとどうなるかわからない。まぁ、何かいい小物でもあればいいんだけどな。
そう思いながらふと掲示板に目をやって、俺はため息をついた。
「親方……あれ」
「ん?ああ、お昼ぐらいからあったね」
うふふ、と笑う親方。ちなみにあれ、とは掲示板に書かれている「本日:手を振るクマ」の文字だった。リアルタイムで弁当の内容が公開されている事実に、少しどころじゃなく赤面する。
「まぁ、幸せ税ということで」
そう言って笑う親方を見て、俺は「ああ、この人もグルなんだなぁ」と悟った。
秒針が回る。
十。
ペンがさっと表紙の上に走る。クリップ。
五。
トントン、と書類をまとめる。そして
零。
ぱさ、と本日最後の書類仕事が机の上に置かれた。
「それじゃ、お先に」
「ああ、ご苦労さま」
「あ、ういっす」
事務所の扉を開けて一歩足を踏み出す。
外の空気は冷たかったけど、それでも俺には心地よく感じられた。
しばらく歩いて、俺はふとその光景に見覚えがあったので立ち止まる。そして
「あ、そうか。ここは今朝来たところだったな」
朝一番の仕事を終えて向かった二番目の現場で、仕事の内容は街灯の交換だった。今までここにあった街灯が少し調子が悪くなり、新しいタイプのライトができたこともあって、そっちに交換することになったのだった。
「街を作る仕事……か」
昔、芳野さんはこの仕事をそう表した。そう言えば、智代も病院でそう言ってくれたっけ、と笑いながら、ふと俺はその街灯を見上げた。
「……っ!」
気づけば走っていた。今来た道を、ものすごい速さで。
汗を拭く間も惜しみ、引き戸を開ける。
「お、岡崎君……どうしたの?」
「すんま、せん……車、いいっすか」
「えっ、どういうこと?」
親方が眉をひそめて聞いた。
「今朝つけた、街灯……あれ、ミスがあった、んで……俺のミスです」
「あ、いや別に……山萩君は……帰っちゃったか」
「いえ、俺一人、で何とか、します」
そう言って俺は仕事着に着替えに行く。
「でも、いいのかい岡崎君」
親方が渋い顔をした。
「今日は、なんだか特別な日じゃないのかい」
足が止まった。鼓動が、停まった。
「僕の勘違いかもしれないけど、今日の岡崎君、これから何か用があるんじゃないの?もしかすると智代さんと約束とか」
「……気づいてたんですか」
苦笑。
「まあ、岡崎君がうきうきする理由って、大体智代さん絡みだからねぇ……」
本当はよくはない。俺はあいつに、早く帰ってあいつの誕生日を祝ってやるって誓ったのだから。
明日でもいいんじゃないか。街灯の一つや二つ、どうでもいいじゃないか。そう言い続けている俺もいる。
でも
「大丈夫っす」
昔、芳野さんに言われたことがある。
この仕事に失敗は許されない。
もし、あの街灯に何か異常が起きたら。
回線が焼き切れて火がついたり、どこかが弛んで落ちてきたりしたら。
そしてその下に誰かがいたら、自分の、誰かの大切な人がいたら。
そうでなくても、街灯はみんなを照らす光だ。みんあが安心して夜道を歩けるための導。それが消えていたら。誰かの大切な人が、それで傷ついたら。
「あいつなら、わかってくれますから」
智代なら、俺の仕事を変に比べたり見下したりせずに受け止めてくれる智代なら、俺がここで素通りすることを良しとはしない。絶対に俺にぴしゃりとやり直してこい、と言って、「仕方のない奴だ」と笑うだろう。
「すぐに終わらせてきます」
そう言うと、俺はライトバンに乗りこんだ。
案の定、配線はいろいろなところで間違っていた。
俺は電気の供給源を止めると、ヘルメットのランプをつけた。
現在、五時半。遅い店でも、七時にシャッターが閉まることを考えると、時間の余裕はなかった。
ケーブルを切って、両端のワイヤーをむき出しにする。そして、それを配線部の接点にねじ込み
激痛。
知らず知らずのうちに、右肩に負担をかけていたようだった。刺すような痛みが肩から背中にかけて走り抜ける。歯を食いしばり、ペンチを持ち替える。
「くっ」
とはいうものの、利き手でもない左手は、うまく動いてくれなかった。ボルトを回すぐらいならもう慣れたが、細かい作業はまだ手間取った。それでも、もう引き返すことはできない。
自分のものとは思えないような手で、複雑な配線を慎重にこなしていく。接点にはさび止めを塗り、そして締めるところは最初は緩めに、仕上げにきつく。
最後に点検する。よし、今度こそ大丈夫だ。
俺はそう思って電気の供給を再開させた。眩いばかりの光。
疲れた笑いが浮かんだ。俺は腕時計をふと見ると、目を閉じた。八時五分前。終わった。
命綱を使いながらのろのろと降りた。一日の疲れが一気に体に圧し掛かる。工具をしまい、注意コーンの周りのライトを消して収納する。そしてヘルメットを外したとき、足音と荒い息遣いが聞こえてきた。
「岡崎さんっ!」
半ば悲痛な声をあげて、山萩は俺に駆け寄ってきた。
「山萩……」
「っ……すみませんでしたっ!」
頭を下げられた。
「親方が言ってました……今日、特別な日だったんでしょ?智代さんと約束あったんですよね?なのに……」
こういうとき、おれはどうしたらいいんだろうか。
やりきれない気持ちがあった。ぶちまけたい気持ちがあった。そして、山萩はそれらを甘んじて受け入れるだろう。
だけど。だけどな。
それは、違うんじゃないか。
「いや、いいんだよ」
「でも……」
「これは、まぁ、俺の私情だしな」
「私情?」
わけがわからない、という顔をする山萩に、俺は笑いかけた。
「俺さ、今失敗をカバーしようとか、お客さんのこととか考えてなかったんだよ。何考えてたか、わかるか」
「はぁ……」
「智代。こいつが、無事に智代の足元を照らしてくれるようにって、そう思いながら作業してた。俺の大好きなあいつが安心して暮らせるようにって、そう思ってドライバー回したり、ニッパー使ってたんだ。だから、いいんだよ」
ぽん、と肩に手を置いた。
「でも……俺……」
「俺だって悪いしさ。新しい規格のこと、忘れてた。それでも悪いと思うんだったら、お前がいつか後輩持ったりしたら、そいつのミスをカバーしてやってくれよ、な」
「岡崎さん」
山萩が目を見開いた。
「それが、俺の仕事で、お前の仕事で、そして愛だからな」
いつもははいはい、とちゃかす山萩。しかしその日は背筋を伸ばして、頭を下げた。
「わかりましたっ!覚えておきますっ!」
その声は、緋色の夜空にこだました。
俺は扉を開けるのをためらった。
結局、あの後いろんなところを走り回ったけど、智代にあげたいと思ってたものは売ってなかった。必死になって手に入れたものは、一つの花束だけで、それだって花屋が閉店間際に売れ残ったのを譲ってくれたものだった。
がっかりするだろうな、あいつ。
そう思うと、ドアノブを握る手が強張り、踏み出す足が重く感じられる。
「ただいま……」
「おかえり、朋也っ」
満面の笑顔で智代が出迎えてくれた。早く帰るという約束すら守れなかった俺に、何の恨み言も言わずに笑顔を向けてくれる、かけがえのない妻に、俺は何をしてやれるのだろうか。
「お疲れ様だな。風呂を先にするか?それともご飯がいいか?」
「ああ……待たせちまって悪い。飯、うまそうだな」
「気にしないでくれ。じゃあ、ご飯にしよう。手を洗ってきてくれ」
くるりと背を向ける智代を抱きとめた。
「朋也?」
「悪い……本当に悪い。俺、お前に祝えるようなことをしてやれなくて、夫失格だよな」
「何を言ってるんだ、朋也」
「プレゼントだってこんなんしかなくて……もっといいの買うつもりだったのに、こんなしなびた花束しかなくて」
そのまま言葉が途絶えていく。
そっと、智代が俺の手に触れた。
「私は今日、帰りに普通は通らない道を通ったんだ」
「……ああ」
「理由はわからない。ただ、そうしたい気分だったんだ。今では、何かの必然だったと思ってる」
「どうして?」
智代がくすりと笑った。何だかとても女の子らしいしぐさだった。
「そこではな、一人の電気工が、一心不乱になって電灯を取り付けていたんだ。右肩を痛めているのに、それこそ必死にな。街を作り、街を育んでいく作業だった。声をかけてやりたかったけど、私は邪魔をしては悪いと思ったんだ」
「邪魔なんかじゃない。智代だったら、邪魔なものか」
するり、と智代が腕の中で振り返った。その綺麗に澄んだ瞳を覗き込む。
「さっき、プレゼントがどうだと言っていたな」
「ああ……」
「おかしいな、お前は私が一番欲しかった物を持ってきてくれたじゃないか」
俺が?いつ?
「私が心から望むもの、それは一つしかないんだぞ」
そう言って、智代は俺の胸に頭を乗せて、背中に腕を回した。
「私はお前がいい。いつも不器用で、ぶっきらぼうで、でも本当は優しいお前がいい」
「智代……」
「朋也がみんなに好かれてるのは知ってる。みんなのために頑張ってるからな。私はただ、そんな朋也が、他の誰でもない、私のところに戻ってきてくれること、私を大事にしてくれることが、何より嬉しいんだ」
頬にやわらかい感触。気づくと、目の前で智代が顔を真っ赤にして笑っていた。
「その、ご飯が冷めてしまうからな」
「……ああ」
「それにこの花束は、そうやって疲れ果てた朋也が必死になって走り回って探してくれたものなんだろ?」
「どうしてそれを……」
くすり、と笑って智代はハンカチを取り出すと、俺の額を拭いてくれた。
「こんなに汗だらけになってくれたんだな」
「……俺だって、それぐらいはお前にしてやりたかったから。智代は俺にとって特別だから」
「そんな大切な朋也がくれた物だからな。私にはすごく綺麗に見えるぞ。玄関に活けておこう」
「ああ、そうだな」
結局。
贈り物自体は届けられなかった。花が見つかったのはただの幸運で、望んだものじゃなかった。その晩の光景も、いつもと変わらず飾り気も何もないものだった。
でも、それでも届いたものはあった。一番大事な、想いというものは、俺が他の誰でもなく智代が一番好きだということは、届いてくれたようだった。
「なぁ、智代」
俺は腕の中の女性に語りかけた。
「ん」
「明日さ、ちょっと付き合ってくれないか。二人で出かけたいんだ」
「それは……すごく、楽しみだな」
ふふ、と笑って智代はその頭を俺の胸に預けて、眠りに落ちていった。俺は意識が沈むまで、そんな智代の髪をさすっていた。
十月十五日がすごく待ち遠しく感じられたひと時だった